レターポットをゲームに置き換えて考えてみる

レターポットって何?はこっちで。

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誤解の無いようにあらかじめ断っておくが、レターポットそのものをゲームだと言いたいわけではないし、造り手側には世界観とか色々な想いがあることも承知している。

その上で、何でわざわざゲームに置き換えて考えるという発信をするのかということだが、理由は3つ。

1:【通貨】【何円】という言葉が出てくるだけで、条件反射的に損得の概念がむくむくと湧き上がってしまう心理もわからなくないから

2:恩送り、感謝、というようなワードが多く出ている状況に対し、懐疑的な心理スタートになる人も少なからずいるから(恩送りや感謝というワードや考え方自体が悪いということではない)

3:イメージしづらいものは身近なものでイメージが出来る方が、とっかかりの心理的ハードルが下がると思うから

 

私の感じた壁の「 レターポットを友人知人に贈りたいけど、相手が登録していない」という点の解決には、やはりユーザー数の増加が必要だと言える。

恐らくだが、現状は西野さんの長らくの理解者や支援者、ファンを中心に、最近の話題性から西野さんいいですね!といった新たな賛同者という広がりになっている。いずれは流行っているから・皆やっているからという感じに、ユーザー数が増え、そして増えるほどに純粋に「西野さんの価値観いいですね」「西野さんの描く世界観を一緒に作りたいです」という人以外も当然に増えることになる。

 

レターポットが閉ざされた(共通のマインドを持つ人だけが使えばいい、という前提)コミュニティのツールとしてリリースされたものであれば、理念や価値観を入口にした狭き門にする必要があるし、そこで合致しない人を排除していく必要性もあると思うが、今10万ユーザーと数を明確に目指していて、試験や審査によって会員権を獲得する性質のものでないことからも、恐らくそういう狙いではないはずだ。

 

というか、そもそもとして他人同士の価値観が常に完全に一致している、という状況はそう簡単に起こらないし、人の価値観を変えるのはそう簡単なことでもないだろう。

FacebookTwitterなどの既存のツールも、社会の仕組みやサービスの多くに、大元の考案者なり現状の運営側には想いや描く価値観があるだろうが、私を含めた各ユーザーがそれを理解し、純粋な賛同だけで使っているのかといえば違うだろう。便利さなり、楽しさなり、それぞれの価値観や利の一部と合致するから使っているといえる。

 

だから、個人的には【価値観や世界観を知ってもらう】という入口だけでなく、【エンターテインメント的な面白さ】の入口から気楽にやてみようかなぁ、というスタートでもいいのではないかと考えての、ゲームの話である。

 

ゲームつながりというわけでもないが、任天堂の社長だった岩田氏の言葉で、感銘を受けたものがある。

「成功を体験した集団を、現状否定をして改革すべきではないと思います。」

ほぼ日刊イトイ新聞 - 社長に学べ!

既存の状態からの脱却には、現状否定の立場から物事を見ることが必要なこともあるはずだし、私自身も事業では常に自身に「このままでのいいか」を問い続けていないと易きに流れて過去の延長上を生きてしまうと感じているが、人を動かす時に相手に否定を直に突きつけることは望ましくないことがある、ということだ。

この点で、レターポットに関する発信が増えて、否定的・懐疑的な声に対して、通貨にこだわっているその考え自体が古くておかしいんだ、みたいな部分が強調されてしまうのは怖いなぁと思っている。

 

ちなみに先に言っておくと、ゲームはそこそこ好きだが、あるとやりすぎてしまうのでなるべく手元に置かないようにしていることもあり、ゲーマーということではないので、「レターポットのライトユーザーがゲームのライトユーザーとして置き換えた」話なことはご了承願いたい。

 

ということで、次からは上記の3つの理由について詳しく考えたことを書いていきたい。

 

letterpot.otogimachi.jp