ツールは気持ちを【快】にして生きるためのもので、レターポットも同じだと考えてみる

レターポットの解説はコチラ

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ちなみに、上記リンクをずっと貼っているのは、自分の中では

・本人の言葉そのままであること

・自分が一番時間をかけて全部を見て(聴いて)考えたものであること

という基準からで、この動画が一番わかりやすい!などの基準ではない。文字起こしやイラスト、スライド、考察ブログなど、様々なかたちで皆さんが発信しているので、好みに応じたもので確認してもらえればいいと思っている。

 

さて、【なんとなく始めづらい感じを少しでも減らし、面白そうと気軽に始めて、多くの人が気楽に使っていけるツールにしたい】という一心でずっとゲームと絡めならがレターポットの話を書いてきた。

その理由が、前回(Nintendo Labo【つくる・あそぶ・わかる】から考える、レターポットの面白さ - 気の向くままに)の終わりに書いた、広く使われないもったいなさ。

 私は、レターポットが多くの人にとって身近な存在になっていって、かつ、きちんと価値が担保されていると、現状における普通の日常の中の【ちょっともやっとする】ことや【悩ましい】ことが解消されて、快適にシンプルに生きられるようになるのではないかと考えているからだ。

ここについて、もう少し詳しく書いてみようと思う。

 

これまで、ママ友だとか、職場の雑談だとかで、こんな愚痴に遭遇する機会が何度かあった。

「姑への母の日のプレゼント困るわー。」

「わかる、うちも物はもう要らないって言われるんだよね。」

「そうそう。食べ物も病気の関係で制限あるし。」

「でもお金とか商品券っていうわけにいかないもんね。」

「ね。ほんと面倒くさい、旦那に言ってもなんでもいいって丸投げだし。」

「でも、あげないってわけにもいかないもんねぇ・・・」

ちなみに、これは姑との関係が良好か不仲かはほぼ関係なく(姑と2人で旅行とか行ってしまうくらいの仲の人は別)、どちらにしても悩ましいという話で、私も「わかる」派である。

もちろん、姑側にしても、「ありがとう」と笑顔でもらいつつ、内心は困っているケースもあるだろう。(西野さんのい言うところの「イベントで差し入れをもらって困っている側」だ。)

 

【経済活性のためには物が売れる必要がある】という側面がある現状においては、企業は「誰かが誰かを思う気持ち」を表すのに【物】を勧めてくる。

そんな中でのレターポット、【要らないものを要らないと言える世界を】【受け取る側の「困る」の解消としてレターが有効】という感じの話に聞こえる方もいるかもしれないが、場合によっては、それは同時に贈る側の「困る」も解消してくれているのだ。

 

本来【感謝の気持ち】として贈られるはずの母の日ギフトが、贈る側に悩みを生んで【ちょっと面倒なこと】というイベントになってしまい、場合によっては、贈られる側にも【ちょっと困った物】になり得て、結果として本質(感謝)がどこかに行ってしまっている。このもったいない状況をスッキリと本質だけに戻せたら快適ではないか。

 

ここで、レターの出番なのである。レターポットが身近になっていて、きちんと価値が担保されている場合、母の日にはレターを贈れば双方気持ちよく感謝の授受が出来やしないだろうか。

 もちろん、今でも母の日にメールなりLINEなりでメッセージを贈ることは出来るが、「それだけというのも」という心理になって、どうしても【物】にいきつくのは、文字が無料だからだ。

レターポットの文字に価値があると嫁側も姑側も理解していれば、同じ文章でもレターで贈ることで【感謝の気持ちのこもった価値のある贈り物】として成立する。

既存の【文字が無料】のツールでは実現できないことが、レターを有料にしたレターポットだからこそ、実現できるわけだ。

 

姑世代がレターポットの価値を理解してくれるとは思えない。そんな風に思う人もいるかもしれない。

私の舅は、いくら周りに勧められてもメール機能の無い古いガラケーを使い続けていた。電話で十分。この価値観はもう変わらないだろうなと誰もが思っていた。ところが、私の娘が携帯を持ち、LINEをするようになって少しすると、驚くべきことが起きた。いつの間にかスマホに変えたじいじとLINEをしているのである。もちろん、特に用があってのことではない。

 

この時にふと思い出した出来事がある。私が子どもの頃に、家に初めてFAXが来た時のことだ。とりあえず誰かに送ってみたい、と九州の祖父母にFAXを送った。祖母から返事が来て、面白いね!と終わった翌日。祖母から「特に用はないですが、今日も元気で」といったようなFAXが来たのだ。こちらが返事を送ると、「忙しいだろうから、返事はいらないです」というようなことが来る。何日かそんなことが続き、ついには父が「用がある時だけにして」と電話をして、FAX文通は終了となった。

 

舅も、祖母も、孫がレターポットでレターを受け取れる環境にあると知り、「レターポットの物理的な使い方」さえわかれば、恐らく、レターポットの世界観やレターの価値がどうということ抜きに、レターポットで孫に言葉を贈るのではないか。

 

母の日ギフトの話に戻る。

仮に、姑は【世の中の誰かとのやり取りのツールという意味ではレターポットに価値を感じていない】としよう。

だが、【孫に何か言葉を届けたい】とか【孫が喜ぶものを贈りたい】という【孫への気持ちの達成が出来るツール】という点においては、レターポットに価値を感じることは出来るのではないか。

そうなると、母の日にレターをもらうことは、姑にとっても純粋に【もらって嬉しい】贈り物になる。「返事を送り合わないもの」と聞かされてあれば、相手のの邪魔をしやしないかと気にすること無く、いつでも気兼ねなく「元気ですか」「体に気をつけて」とレターを贈れる。

 

孫がレターポットデビューするまでは嫁か息子に宛てて贈ることになるだろうが、通知が来るわけでもなく、既読もつかない、返信の義務もないレターポットにおいては、多少姑が苦手な嫁にとっても「またLINE来たー毎回元気かって言われても元気だし、何かあったら言うのになー夕方まで既読つけないようにしておこう。」というようなことも起きない。更に、もらったレターの文面は残したまま、レターを今度はママ友に「今日はランチ楽しかったね!車に乗せて行ってくれてありがとう!」とちょっとした御礼として贈ることもできる。

 

やがて孫が大きくなり、自らのレターポットを使い出す。「もう成人したんだからお年玉はいいよ」と言ってお年玉を返してくる孫にも【気持ちです、人の役に立ててください】とレターを贈ることだって出来る。そのレターが孫から誰かに贈られ、レターポットを役立てながら孫がたくさんの支援者に恵まれ、夢を達成することが出来たら。いや、そこまで大きなことが出来なくてもいい、贈ったレターを友達や彼女にでも贈って、皆で楽しくやっててくれればいい。

 

これが、今、私が描くレターポットが普通の選択肢の1つとして存在する世界だ。

レターポットって素晴らしい!とかそういうことでなくて、気持ちを贈り合う場面から【物】と【モヤモヤ】を取り去って、気持ちを【快】にしやすくツールとして、レターポットを活用することをイメージているだけである。 

別に、世の中の人にこういう姑になれと言いたいのではないし、祖母が贈ったレターを孫はせっせとメルカリに出品して【円】にしてしまうかもしれない。

ただ、今後、子ども世代から何かをもらう側になっていく身としては、(うちに息子はいないので嫁は出来ないが)もし母の日や誕生日に何かくれると言うなら、物でなくてレターでもらうという選択肢があると、今よりも気持ちがスッキリ快適に生きられそうだと私は感じているのだが、いかがだろうか。

 

letterpot.otogimachi.jp