レターの効果をNintendoスイッチに置き換えて考えてみる

レターポットって何だろうという方はこちら

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上記リンクは、私の中で、 

・本人の言葉そのままであること

・自分が一番時間をかけて全部を見て(聴いて)考えたものであること

という基準から選んでいる。この動画が一番わかりやすい!などの基準ではない。文字起こしやイラスト、スライド、考察ブログなど、様々なかたちで皆さんが発信しているので、好みに応じたもので確認してもらえればいいと思っている。

 

まずは何故こうもレターポットについて長らく書いているかを要約しておくと、

「レターポットが多くの人に認識されて、選択肢の1つとして普通に存在する世の中になれば、今ではどうしても【物】に込めがちな【気持ち】や【想い】を、レター(文字)に込めて贈れ、今あるモヤモヤが解消されてシンプルに気持ちを【快】にして生きられるのではないか。」という考えに基づき、まずはレターポットに対して【気楽に始めて気楽に使い続けられて面白い新しいツール】ような印象を持ってほしい。そんな思いで色々と書いてきた。

 

今回はもう1歩踏み込んで、【レター】に【価値】があり、かつ希少な時にこそ、【贈り物】としてのパワーを発揮する即面を考えてみたい。

 

まず前提として、レター(文字)が現在の社会における贈り物としての【物】と同様に役割を果たせるためには、その価値が持続しなくてはならない。

 

価値がある、という状態を現状の社会で考えると、【値段が高い】というのは一つの指標だろう。だが、レターポットでいうレターの価値がある、とは、現在1文字5円で買うレターが将来は1文字10円になるという話ではない。(はずだが、解釈が違ったら指摘してほしい。)

以前の記事(ツールは気持ちを【快】にして生きるためのもので、レターポットも同じだと考えてみる - 気の向くままに)にも薄っすらと書いたが、レターをメルカリなどレターポット外のやり取りで1文字10円で出品する人も出るかもしれないし、そこでしかレターが入手できない人にとっては、1文字が10円になるということはあり得るが、そういうケースに関してはいったん置いておく。

 

【値段が高い】以外で価値がある状態ということはどういうことか。西野さんの言う「お金を出しても文字が買えない時があるかもしれない」とは、入手困難な状態を指している。この側面から考えていこう。

 

私が仲の良い友人に出産祝いを贈る時。

Aちゃんはゲームが好きで、妊婦だから徹夜で並べなくてNintendoスイッチ買えないと言っていた(=Nintendoスイッチをもらうと嬉しい、という前提)私はNintendoスイッチ入手のために極寒の中、徹夜で並んで買おうとした。が、諸々の不運が重なり直前で売り切れ。その後も手を尽くしたが、結果的には努力の甲斐無く出産までに買えなかった。

 

レターポットに置き換えてみよう。

Bちゃんは物はあまり増やしたくない子で、レターポットユーザー(=レターをもらうと嬉しい、という前提)だ。レターは課金で手に入れられない時期で、私の手持ちのレターは諸般の事情で殆どない。

ここで即、【日常の自分の在り方(信用)がよければレターが自動的に多い状態なはずだから、そもそも手持ちレターが少ないのがその人の日常のあり方に問題がある(信用が低い)からじゃないの?】という発想は少し乱暴に思える。

Nintendoスイッチが買えない状況に対して、「日常の頑張り次第では、Nintendoスイッチをコネで回してくれる人脈の1つや2つ出来るでしょう」とか「徹夜で並んだと言っても並び始めが遅かったんじゃないの」とか、本人にしかわかりえない【頑張っても入手出来なかったことに関する事情】を他人がとやかく言うのと同じではないか。

 

では、手持ちレターが少ないのは誰しもが普通にあり得る状況で、それは本人がダメということではないとして、レター入手には「誰かが勝手にくれる」か「くださいと頼む」しかない。

今はTwitterで「ください!」と言いやすい状況だが、レターポットの本質においてはこの発言は「私にありがとうって言って!」と同じともいえ、特にレターに希少性がある時にただ「ください」というのは少し無粋だろう。

ただし、give&giveの概念が真の意味で広く浸透している状況においては、例えレターに希少性があっても、【友人の出産祝いに贈りたいのですが手持ちが少ないので、よかったら少しください】に対して支援してくれる人が少しずつ贈ってくれる可能性はある。

これは実は【Nintendoスイッチください】よりも非常にハードルが低いことで、ここが物にはないレターの利便性だ。

 

【Nintendoスイッチください】のツイートに対し、タダでNintendoスイッチをくれる人はほぼいないだろう。「お代は払うので」と言っても、そもそもが入手困難な状況であれば、定価のまま譲ってくれる人を見つけるのもかなり難しいだろう。結局、転売などで得ることになり(これはレターをメルカリ等で高く買う状態)、値段や手段に関わらず買う!という話になると物もレターも同じなのでそこは割愛する。

 

最大のポイントは、Nintendoスイッチ(物)は「じゃあ私はAボタンだけならあげてもいいよ」「じゃあ私は外箱あげるよ」といった具合に「皆が少しずつどうぞと寄せ集めることができない」が、レターは完成品は【言葉】であっても、その構成は【文字】であり、【文字】は変化自在なものであるため、「1文字なら」という小さなgiveがしやすく、それを集めて完成品にできるのだ。

そして、ここでどれだけの文字数を集められるかが、それまでの自身の行動に左右されたり、或いは「贈ったレター数」「もらったレター数」といった可視化機能が一つの指標として、見ず知らずの人が協力するかしないか判断する一助になるのである。

※数による評価の可視化機能は、App StoreやPlayストアで口コミの数や★の数が多いゲームだけが面白くて、そうでないゲームがダメということでなく、あくまでも指標の一つであって、それを元にそのゲームをプレイするかしないかは各人の判断なのと同じで、「贈ったレター数」「もらったレター数」によって人の価値を決めつけるものではない。

 

これは今で言うクラウドファンディングがよく似た構造だと言える。そういう意味では、現時点においてレターポットの発展性の1つにクラウドファンディングでの成功例が出ているのは、構造の共通性から必然と言えるかもしれない。

 

ただし、クラウドファンディングはあくまでもレターポットの活用例の1つでしかなく、レターポットがクラウドファンディングそのものでないのは、クラウドファンディングは【資金】を集めるツールであり、クラウドファンディングで【Nintendoスイッチ(物)】そのものを集めることは当然にできない。

本件の前提は【友人への贈り物を買うお金がないからください】ではなく【友人への贈り物そのものが入手できないから助けて】だったはずだ。

Aちゃんへの贈り物(Nintendoスイッチ)は出産までに入手が出来ない場合、恐らく別の何か【物】を買って贈るだろう。そして、場合によっては、【気持ち】は嬉しいけど【物】としては「いらないもの」になってしまう可能性が残る。

一方で、Bちゃんへの贈り物(レター)は、レターポットで集めてそのまま贈り物として有効になる。思うように集まらず、1文字5円換算で計算すると円としては少ないと言える場合でも、【気持ち】は伝えられる。そして、間違い無く言えることはBちゃんにとってはこの贈り物は「いらないもの」にはならないということだ。

 

私がレターポットに魅力を感じるのは、こういった、【使い方次第で既存のツールよりも役立つかもしれない部分】を期待しているからだ。

  

letterpot.otogimachi.jp