下りエスカレーターを上り続ける

数年前に「人生は下りエスカレーターを上り続けるようなものだ」という話をしてくれた人がいた。

立っているだけなら現状維持、少しでも段を上っていれば成長と思っているかもしれないが、時の流れや社会の変化スピードはそう甘くない。

下りエスカレーターに立っていたら、立っているだけならどんどん位置は下がっていくし、速度と同程度に段を上り続けてようやく現状の位置を維持。少しでも上の位置に行きたければ、相当に努力をしなくてはいけないし、何よりも歩き【続け】なくてはいけない。

こんな感じの話なのだけど、これを時々思い出しては反省をする。

 

昨日、異業種の企業の方々と保育に関して話し合う場をいただいた。

保育現場ってどんな状態なの?課題点や解決策って実際どうなの?というような話を包み隠さずざっくばらんに話した場だったのだけど、異業種の方だからこそ「あるある」やニュアンスでは通じない部分があり、背景や原理まで戻りつつ、要点を説明する必要があった。

そうやって自分の中の情報や考えを整理し、アウトプットしてみて驚いたのが、

あれ?これってもっと改善できる部分なんじゃないの?

と我ながら思うことがいくつも出てきたこと。

 

基本的に私は、課題点や問題点は即検討に入り、小さなことは当日中、大きなことも概ね1週間以内には結論を出すことを習慣にしている。

事業主という立場的にも判断をしなくてはいけない事項は多い上に、労働環境の仕組み上、全ての職員から直で相談も意見も来るため、【検討中】と保留しておく暇がないためだ。脳みそのキャパ的に保留にしたことは確実にそのまま後回しで忘れ去ってしまうし、メモに残そうが一生メモが増えるだけなのである。

こうして【保留しない】ことはとてもいい面もあるのだけれど、怖いところは【この解決が最善とは言い難いが、総合的に現時点ではこういう解決にすることにした】という形で解決してしまった事項について、【より〇〇が合うものがあれば変えたいな】というわずかに残された課題点を忘れてしまうことだ。

半年前に【あまりいいのがないので、既存のシステムに加えてこういう対処をして解決する】と判断していたことが、今回の議論を通して再度情報収集をしてみたところ、マッチしそうなサービスがうまれていたのである。

120%希望にマッチするものはないだろう、という前提にいてくれる現場側も、一度解決策をもらうと「まぁ多少の不便は仕方ないか」と受け入れてくれてしまう。そうなると、現場側から「やっぱりここが不便です」と再度言われることもないので、「うまくいっている」と勘違いしていまう。

「ちょっとモヤっとするなぁ」「もっとこうなると便利なのに」という小さな思いを見ないふりをする癖がつき、「 今なんとかなっているし、大丈夫かな。」という判断が習慣化してしまうことはとても怖い。 

特に、「今なんとかなっているし」が余裕のある環境での話ならまだいいが、余裕のない状況下での「なんとかなっている」は一瞬で「なんとかならなくなる」点がある。

「なんとかなっている」としても、より改善できそうな事項は忘れずに記録をしておく必要があるし、【100%とはいいかがたい解決をした】事項も残し、定期的に再検討をする習慣をつけなくてはいけないと感じた。

 

【園運営は満足か?理想の常態か?もっとこうしていきたいという思いはないか?】

そう聞いてくれた人に感謝したい。

子供達は楽しそうにのびのびと通ってくれているし、保護者からの声にも不満見えない。先生達も皆、頑張ってる。私も頑張ってる。

それはそれで満足する気持ちも持たないと、「まだまだ!」と発破をかけてばかりでは気持ちが持たない。頑張ってることは間違いない。

 

でも。

 

「理想か?」と言われれば違う。「もっとこうしていきたいという思いは?」の問いに自然と溢れた言葉達が、本音だ。

 

開園から1年駆け抜けるように過ごして、いつの間にか、「うまくいってる」と安堵して立ち止まっていなかったか?

「こいういうものだから仕方ない」が先に来ていなかったか?

焦ることはない、ゆっくりでもいい、それでも、歩き【続け】よう。